「乙夜さんて字キレイだよな」 なんて。向かいで大人しくしていた根小山が突然そんなことを言うものだから、驚いて書きかけの「へ」の字がぐにゃりと曲がってしまった。 「急になんだよ」 「や、ふと思っただけで深い意味はねーんだけどさ」 根小山の視線がペン先に移る。 使い古した万年筆の先から、相棒曰く「キレイ」らしい文字が生まれていく。 「別に意識したことねーけど……そうか、綺麗なのか」 書き途中の書類を眺めて呟くと、それに応えるように、視界の端で根小山の頭が小さく上下したのが見えた。 カリカリ、ペンが文字を生み出す音。 コトン、コップの底がテーブルを叩く音。 カチカチ、時計が時間を刻む音。 カサリ、紙がめくれる音。
どのくらい経っただろうか。心地よい無言の時間は、唐突に終わる。 「よし、これで完璧」 書き上げた書類を持ち上げて、その上で踊る言葉を眺める。添付の領収書を確認して、間違いがないことを確認しながら封筒に詰める。 趣味でやってる喫茶店の、唯一死ぬほど嫌いな作業。今年の確定申告もこれでお終いだ。 「あぁ、終わった? お疲れさん」 「悪いな放ったらかして」 「いいよ。乙夜さん見てたし」 本気なんだから冗談なんだか、そんなことを言いながら根小山がへらりと笑う。それに肩を竦めて、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み下した。 「……乙夜さんさ、手紙とかは書かねぇの?」 「藪から棒に何だよ」 「いや、前に遺書の内容が思いつかないから書けないって言ってただろ。普通の手紙はどうなのかと思って」 「あー……」 そういえばそんな話をしたことがあった。遺書屋をやっているくせに自分の遺書が書けないなんて、笑い話にもならないと思って隠していたのだが、ディスパイア事件の後、ふとした弾みで根小山に話してしまったのだ。 「手紙なぁ……そっちも得意じゃねえんだよな」 「へぇ、意外」 「だってよ、何書いたらいいかわかんねぇだろ手紙なんて。相手が生きてるなら口で言う方が早ぇし」 「よくそんな情緒で遺書屋なんてやってんな……」 「黙れ黙れ」 呆れたような表情を浮かべる根小山の額を指で弾く。そんなことを言われても、わからないのだから仕方ないだろう。 気恥ずかしさを誤魔化すように、煙草に手を伸ばす。テーブルの隅に追いやられていた灰皿をこちらに寄越しながら、根小山が「奇麗なのに勿体無い」と小さく呟くのが聞こえた。
当たり前のように二人で飯を食って、順番にシャワーを浴びて、同じベッドで横になる。オッサン二人が何をイチャついているのかと思わなくもないが、別に誰が見ているわけでもないのだから、まぁ構わないだろう。 今日は普段使わない脳みそを使ったせいで大変疲れた。ベッドに体を横たえた途端、瞼がずしりと重くなる。このまま寝落ちたらたいそう気持ちがいいだろう。 「うわ、すごい眠そう」 ギシリとベッドを軋ませながら、根小山が笑いまじりにそう言ったのが聞こえた。 「実際眠い。あぁでも、待て、寝る前にこれやる」 ズブズブと眠気の沼に沈んでいく意識の、最後の一欠片を絞り出す。寝間着のポケットに折りたたんでしまっていたメモ用紙を、根小山の声がした方に置いた。 「何これ」 「手紙。ろくなこと書いてねぇけど」 欲しかったんだろ、と言う言葉はどこまで声になっただろう。 意識が落ちる刹那、根小山が息を呑んだような気配を感じて、少しだけ笑った。
電話の脇にでも置いてあるような、再生紙の小さなメモ。その紙の真ん中に、ぽつんと文字が書いてある。 整った文字はただ一言、「愛してる」と告げていた。